2.出身・少年期

生年と出生地、及び出自

 宮本武蔵は、1584年に播磨国(現・兵庫県)に生まれ、1645年に肥後国(現・熊本県)で死んだ。数えで62年(満で61歳)の生涯であった(1)。

播磨周辺諸国図


 武蔵の出生地については、彼が自身の兵法書(五輪書)に、「生国播磨(生まれた国は播磨)」と記している(2)。また、播磨の地元文献『播磨鑑』〔はりまかがみ〕には、揖東郡宮本村(現・兵庫県揖保郡太子町宮本)と具体的な場所を記している(3)。これにより、武蔵が播磨のどこで生まれたか、出生地を特定できるのである(4)。
 武蔵は播磨の武士の家に生まれた(5)。上記の『播磨鑑』が示す出生地からすれば、武蔵の出身は、龍野城主・赤松氏に属した武家である(6)。
 戦国末期の播磨のローカルな情勢をいえば、大局的には西の毛利勢と東の織田勢の勢力境界にあって、播磨諸城に拠る領主たちが生き残りを賭けて抗争していた。そこへ織田信長は羽柴秀吉の軍勢を派遣し、播磨制圧戦争(1577~80年)に突入した(7)。この戦争は1580年には秀吉軍が完勝して、帰服しなかった旧来の播磨諸城主は全滅した。

「生国播磨の武士」
吉田家本五輪書冒頭


 秀吉による播磨制圧後、武蔵の出生地周辺の新しい領主になったのは、黒田官兵衛(1546~1604)であった(8)。いわゆる「黒田二十四騎」はいうまでもないが、当時の播磨の武士の多くが黒田官兵衛の部隊に組織された。このような状況からすれば、武蔵の実父も他の武士と同様に、黒田勢に属した可能性がある(9)。
 しかしながら、当時のほとんどの兵法者と同様に、武蔵の実父も記録上不明である。武蔵自身も彼の養子の伊織も、何も記していない。おそらく武蔵の実父は、後世に名を残していないところからすれば、武蔵が生まれて間もなく、戦功を立てる以前に、若くして死亡したのであろう。

黒田勢、播磨から九州へ


 秀吉の九州戦争に従い、1586~87年ころ黒田勢は九州へ行って戦った。九州制圧の結果、黒田官兵衛は豊前国六郡に十五万石(一説に十二万石)を与えられ、中津に城を築き、そこを拠点とした。このころ、多くの播州人が新天地・豊前へ移った。とすれば、幼い武蔵が、親族に連れられて、播磨から九州へ移ったかもしれない。つまり、武蔵は播磨生れだが、こういう周辺環境の動向を見るに、彼は九州豊前育ちの可能性もある(10)。

顕彰会本『宮本武藏』
1909年刊


 なお、武蔵の出自に関して異説がある。一つは、武蔵は美作国生れで、平田無二(武仁)〔むに〕の子だという説であり(11)、もう一つは、武蔵は播磨国生れで、田原甚右衛門家貞の二男だという説である(12)。どちらも、根拠を欠く明らかな謬説である。口碑伝説は自然発生的だが、それを記すのは人為的行為である。
 今日、武蔵の童名が「弁之助」または「弁助」だという説が信奉されているが、それには確証はない。武蔵の童名は、武蔵及び伊織の世代の一次史料では確認できない。この童名説は後世の九州ローカルの伝説であり、また、それ以上のことではない(13)。

地志播磨鑑
平野庸脩自筆題簽

(1) 宮本武蔵著『五輪書』。1645年死去直前、草稿を弟子・寺尾孫之允に譲渡。同書にその執筆開始の年月日を記し、同時に年齢を記していることから、彼の生年が知れる。すなわち、武蔵が『五輪書』執筆を開始したのは、「寛永二十年十月十日」、当時年齢は「六十」と記している。寛永20年(1643年)に年齢が数えで60歳だから、生まれた年は1584年、天正12年となる。また、養子伊織が1654年に建立した武蔵記念碑の碑文の記事によれば、武蔵は1645年5月19日、肥後熊本(現・熊本県熊本市)で死去した。

戦国末期播磨諸城図


(2) 『五輪書』地之巻。現在なお、武蔵を美作国宮本村(現・岡山県美作市宮本)生れとする説が一般に通説となっているが、これは、20世紀はじめの書物『宮本武蔵』(宮本武蔵遺跡顕彰会編 1909年)に発する謬説である。同書の著者は、『五輪書』の「生国播磨」という記事との矛盾を知りながら、武蔵が美作生れだという説を維持するために、故意にこれを無視したのである。以来、その倒錯した説は、根本的な批判にさらされず、最近まで生き延びてきた。

東作誌


(3) 『播磨鑑』(平野庸脩著 18世紀中期)。播磨全域にわたる歴史地理書で、播磨地方史の基本文献。『宮本武蔵』(宮本武蔵遺跡顕彰会編 1909年)の著者・池辺義象は、この史料を知らずに書いている。


(4) 我々の武蔵研究プロジェクトにおいて、『播磨鑑』の武蔵記事の再評価がなされ、2003年初頭、本サイトのスタート時に、その研究成果が公表された。我々のこの武蔵産地=揖東郡宮本村説は、戦前の森銑三の所説以来、実に60余年ぶりの播州宮本村説であった。森銑三(1895~1985)は近世書誌学者。本件に関しては、吉川英治の『随筆宮本武蔵』を批判した「『随筆宮本武蔵』」(初出『日本及日本人』1939年)、『宮本武蔵言行録』(1940年)他がある。武蔵研究の現段階からすれば、森の所説には誤りが少なくないが、『播磨鑑』の記事に注目したところはさすがで、この点に関するかぎり評価できる。『播磨鑑』に依拠した播州宮本村説は、森銑三以前では、直心影流15世・山田次朗吉(1862~1930)の『日本劔道史』(1925年)がある。それゆえ、大正の山田次朗吉、昭和の森銑三、そして平成の我々の武蔵研究プロジェクト、それが近現代における播州宮本村説の系譜である。


(5) 『五輪書』地之巻。武蔵は、自分は播磨国生れの武士(生国播磨の武士)だと記している。

武蔵産地説マップ


(6) 揖東郡は、龍野城主・赤松氏の領域にあった。武蔵養子の宮本伊織が1654年に豊前小倉郊外に建碑した、武蔵記念碑の碑文(通称「小倉碑文」)によれば、武蔵は「播州英産(播磨生れの優れた人物)」で、「赤松末葉」「赤松末流」である。それは、武蔵の出自が赤松氏系統の家だったからである。ただし、播磨には「赤松末葉」「赤松末流」は非常に多いから、武蔵の家がどれとは特定はできない。


(7) 播磨諸城主は従来から対立抗争していたが、秀吉軍が播磨に侵攻して、結局毛利方と織田方に分かれた。置塩城の赤松宗家・則房や龍野城の赤松広秀は、早々に開城帰服したが、三木城の別所長治、長水山城の宇野政頼、御着城の小寺政職、英賀城の三木通秋と一向一揆衆ら他の諸城は、毛利方について、信長に徹底抗戦する道を選んだ。


(8) 秀吉が黒田官兵衛に与えた宛行状(領地支給証書)。1580年及び1581年。武蔵が生れた宮本村のある石見庄を含む。のちの大大名・黒田家の大名としての原点とスタートは、この揖東郡内一万石の領知からである。


(9) 「黒田二十四騎」は黒田官兵衛が組織した軍勢の中核をなす武将たち。彼らの大半が播磨生れの人々である。後年の武蔵伝記『丹治峯均筆記』(1727年)には、武蔵が死に場所を選ぶ逸話を記し、そこに「故郷といい、武勇といい、黒田家か」という文言がある。黒田家と武蔵は古い因縁があり、とくに両者が故郷が同じだった、という伝説が筑前黒田家中にあったようだ。


(10) 筑前系武蔵伝記『丹治峯均筆記』には、武蔵9歳のとき、「父」新免無二との不和から無二に家を追い出され、播磨へもどったという伝説を記す。この説話の背景は、天正末まで武蔵は無二と九州豊前で暮らしていたということである。これは黒田家中の伝説であり、我々の仮説とは無関係である。


(11) 明治末の『宮本武蔵』(宮本武蔵遺跡顕彰会編)が提唱した武蔵出生地美作説に依拠した説。しかし実際には、ご当地・作州宮本村(現・岡山県美作市宮本)にある平田無二の墓誌によれば、彼は武蔵が生まれる4年前(1580年)に死亡している。この説は、本来は、『東作誌〔とうさくし〕』(正木輝雄著 1815年)の著者が19世紀はじめに美作国吉野郡で採取した伝説。ただし、同書の著者は、当地には伝説のみで、武蔵に関する物証は残っていないことを証言している。著者の正木輝雄は、津山松平家に寛政年間に仕官した新参の家臣、地元美作の人ではない。軍学師範だが、むろん『五輪書』に「生国播磨」とあるのを知らずに書いている。この件については、本サイト[武蔵の出身地はどこか]あるいは[資料篇]の東作誌関連諸論文に詳しいので、それを参照のこと。


(12) 武蔵養子の伊織の子孫が19世紀半ばに作成した小倉宮本家の系譜資料による説。その系図は、伊織の実家・田原氏の家系に、伊織の養父・宮本武蔵を逆に引っ張り込んでしまっている珍資料。しかし伊織の祖父・田原家貞その人は、宮本家系図そのものが、天正5年(1577)卒と記しているように、実際には武蔵が生まれるはるか以前に死亡している。資料それ自身が自己矛盾を露呈しているケースである。また、小倉宮本家の系譜資料は、武蔵を天正10年(1582)生まれとするが、これも誤伝もしくは作成者の誤りである。系図には干支の誤りもいくつかあって、作成者が正確な伝承をもたぬこと、オリジナルを欠く後世作成の文書であることを自ら露呈している。武蔵が田原氏で、伊織の祖父の二男だというこの設定は、19世紀に九州小倉で発生した(もしくは捏造された)新説である。上記『播磨鑑』はじめ地元史料によれば、播磨にはそんな文書も伝説もない。この件については、本サイト[武蔵の出身地はどこか]あるいは[資料篇]の諸論文に詳しいので、それを参照のこと。

元祖宮本辨之助肖像


(13) 筑前の武蔵伝記『丹治峯均筆記』(立花峯均著 1727年)には、「童名は弁之助」とあり、肥後の武蔵伝記『武公伝』(橋津正脩他著 18世紀中期)、『二天記』(豊田景英著 1776年)には、それぞれ「少名は弁介」「幼少の名は弁助」とある。ところが、この名の初出は、17世紀後期の筑前の海事文書『江海風帆草』(吉田重昌他編・立花重根序文は1704年)。とすれば「童名弁之助」説は、武蔵流兵法末孫の伝承ではなく、巷間の口碑から入ったもので、筑前の黒田家中の伝説が最初と思われる。ただし、「弁之助」が童名だというのも妙な話で、通例「○○弁之助」は成人が使用する通称。「弁之助」が初名だとするのならともかく、童名というのは不審である。ようするに、童名らしくない名である。初出の『江海風帆草』にも、これが童名だとは記していない。そこで、この名の生成過程を再構成すれば、武蔵→(武蔵坊弁慶→弁慶→弁)→弁之助というワードプレイで、実は「武蔵」名から「弁之助」は導出されるのである。これは伝説形成にはよくある言語ゲームのパターンである。隠し言葉「武蔵坊弁慶」のこうした介入というのも、弁慶のように強い怪物的な豪傑少年という巷間伝説のイメージのしからしむるところで、右図のような獰猛な少年武蔵像は、そうした巷間伝説を可視化したものである。なお因みにいえば、円明流伝書には、宮本武蔵守正勝の初名を虎之助とする。九州系の弁之助が、上方系のこのフィクショナルな虎之助よりも格別信憑性があるわけではない。

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