4.大坂陣・播磨時代
大坂の陣に参戦する
20代終りに諸国遍歴修行を切り上げた武蔵は、おそらく、また京都に住んだであろう。決闘勝負は卒業しても、武蔵の知的芸術的修行は続いたはずである。これは「文武両道」のうちの「文」(文化)の修行である。そのような「文」の修行のための場所は、京都をおいて他にはない。
ところが、1614年になって、徳川家康は、豊臣家を滅ぼすための行動に踏み切った。大坂城にあった豊臣秀頼に対し、徳川家康は着々と二重権力状態を構築してきたが、ついにそれを清算する決心をしたのである。
家康は、まず1614年冬に諸大名の大軍をもって大阪城を包囲したが、これを陥落せしめることはできなかった。そこでいったん停戦して、大阪城の堀を埋めるという譲歩を引き出した。これにより難攻不落の大阪城は裸同然にされた。翌1615年夏、家康は今度は本格的な攻撃に出た。激しい戦闘の結果、ついに大坂城は陥落し、豊臣秀頼とその母は自殺して、豊臣家は滅んだ。
この大坂戦争のとき、武蔵は、どこでどうしていたか。これについて、武蔵諸伝記には具体的な情報はまったくない。小倉の碑文は、このとき武蔵に語りつくせないほど戦功があったが、それは記述省略するとして、具体的なことは述べていない(1)。
プライマリーな史料である小倉の碑文がそんな有様なので、後年の武蔵諸伝記には当然何の情報もなかったようである。肥後系伝記は、1614年と翌年に大坂戦争があったことを記すが、武蔵がどうしていたか、何も記せないでいる(2)。また筑前系伝記には、大坂戦争に参戦して功名を顕した、薙刀で多数を薙ぎ倒した、というステロタイプな伝説を記すのみである(3)。したがって、武蔵流兵法末孫は、大坂の戦争で武蔵がどうしていたか、その情報をもちあわせていなかったようである。
これに対し、武蔵が、家康の従弟にあたる水野勝成(1564~1651)の軍勢に属して参戦した、という伝説を記す他の諸文献がある(4)。これは尾張の伝説を記したにすぎないものだが、ところがこの伝説を傍証する資料がある。すなわち、1615年夏の水野隊の構成メンバーリストを記す文書が存在し、そこには、勝成の息子・勝俊についた武士の一人に「宮本武蔵」の名を掲げている(5)。この史料によって知れることは、武蔵が水野勝成の息子・勝俊の護衛につき、また彼に戦功を挙げさせる役を引き受けたらしい、ということである。
水野隊は、徳川方の軍勢の中でも最も激しい戦闘を戦いぬいた部隊である。すなわち、後藤又兵衛の部隊をはじめとして、薄田兼相、真田幸村、明石全登の部隊と次々に戦い、これらを打破った。水野勝成・勝俊父子も前線へ出て戦った(6)。武蔵がつねに水野勝俊のそばについていたとすれば、武蔵もこれら強敵相手の激戦の場にいたことになる。大坂陣後の論功行賞で、水野勝成は諸大名中「戦功第二」と賞せられ、大和郡山6万石を与えられ、大いに家運が隆盛になった。
なお、後述するように、数年後武蔵は三木之助という若者を養子にするが、この三木之助は、水野勝成の家臣・中川志摩之助の三男である(7)。水野勝成との親しい縁がなければ、武蔵が彼の家臣・中川志摩之助の息子を養子にするなど、ありえなかったであろう。
ところが、このような諸事実にもかかわらず、大坂戦争で武蔵が、徳川方ではなく、豊臣方に属して参戦し、敗戦後失望して諸国を流浪した、とする説がある。だが、これは何の根拠もない、明白な謬説である(8)。
(1) 1654年宮本伊織が建碑した武蔵記念碑の碑文。通称「小倉碑文」。
(2) 『武公伝』および『二天記』。
(3) 『丹治峯均筆記』。著者は、武蔵がどの大名に属して出陣したか、そのことは(聞いたけれど)忘れた、とも記す。
(4) 戦前、書誌学の森銑三(1895~1985)が吉川英治の説を批判して、記事の所在を示した『黄耈雜録』(松平君山著 18世紀中期)。それに、これを種本にしたらしい『趨庭雜話』(著者不明 19世紀初め)。武蔵に関する尾張の伝説断片を記す。伝説のことゆえ、記事内容はいささか荒唐無稽である。
(5) これも戦前、堀正平『大日本剣道史』(1934年)が、大坂夏の陣のとき武蔵が水野勝成麾下で出陣したことを明記し、「水野家記録」としてその史料の所在を示した。それが備後福山藩史料「大坂御陳御人数附覚」〔大坂戦争参戦メンバーリスト記録〕。勝成の息子・勝俊のそばについた「作州様付」の10人の武士の中に「宮本武蔵」の名がある。この史料は後年の写本しか現存しないが、推定原本は1650年代前半の作成。しかも武蔵を「新免」ではなく、後の通称「宮本武蔵」で記す。ゆえに、水野家中の口碑伝説によって、推定原本作成時の1650年代に「宮本武蔵」の文字が後入れされた可能性がある。もしくは、さらに後代の写本段階での後入れの可能性もある。それら問題点はのこるが、後述のように武蔵の養子・三木之助の所縁もあり、他に有力史料が出ない現状では、武蔵は水野隊に属したとするのが妥当とみておく。
(6) 『水野日向守覚書』〔水野勝成による覚書〕(1641年)
(7) 「宮本先祖」。宮本小兵衛(三木之助の甥)による家系申告文書。『吉備温故秘録』(大沢惟貞編 18世紀末)所収。
(8) 『宮本武蔵』(宮本武蔵遺跡顕彰会編 1909年刊)が、何の典拠も示さず憶測で主張した謬説。明治時代は反徳川の気分が支配的であった。それゆえ、武蔵を豊臣方にしたい著者の筆がつい不用意に走ってしまったらしい。
播磨時代と二人の養子
大坂の戦争が終って、豊臣家滅亡後の新体制、諸大名の領国領地について全面的な配置換えがあった。これにより幕府は、外様大名を遠隔地に追いやり、地政学的に有利な勢力配置を実現しようとした。
武蔵の生国・播磨も、戦略的に重要な地域であったから、当然のように領主の大名が交替した。播磨と隣接の備前・淡路三国の計約百万石は、それまで外様の池田氏が一元支配をしていた。日本で最も有名な城郭の一つである姫路城は、播磨宰相・西国将軍という異名のあった池田輝政(1564~1613)が築いた。大坂戦争後、幕府は池田氏を他国へ移し、播磨国を3つの領域に分割し、譜代大名の本多家とその女婿の小笠原家に与えた。
すなわち、播磨国の中心地・姫路城主に本多忠政(1575~1631)を配置し、彼の二男・本多政朝(1599~1638)を龍野城主とした。本多忠政の父・忠勝(1548~1610)は、家康の初期からの家臣で、最も強力な武将の一人であった。家康の息子・二代将軍徳川秀忠(1579~1632)は、新体制を築くにあたり最も信頼できる大名を播磨国に配置したのである。
*【本多忠刻関係略系図】 豊臣秀吉―秀頼 │ 徳川家康―秀忠―千姫 ├―勝姫 本多忠勝―忠政―忠刻 │ ├―綱政 池田輝政─利隆─光政 |
*【小笠原本多両家略系図】 小笠原秀政―┬忠脩戦死 │ │ │ ├長次 └忠政│ ├―忠雄 ││ ┌亀姫 │ 本多忠勝┬忠政┼忠刻 │ │ │ └政朝―政長 │ └忠朝─政勝─政利 |
将軍秀忠の娘(つまり徳川家康の孫娘)・千姫(1597~1666)は、7歳のとき政略結婚で、豊臣秀吉の息子・秀頼に幼くして嫁し、以来大坂城に住んでいた。名目は妻とはいえ、実体は人質であった。大坂戦争のとき、城が陥落する直前、彼女は救出された。将軍秀忠はこの千姫を再嫁させた。その相手は本多忠政の長男・忠刻〔ただとき〕(1596~1626)であった。秀忠は千姫の結婚にさいし、10万石という法外な化粧料(持参金)を与えた。忠刻は千姫とともに、父・本多忠政の姫路城に住んだ。
播磨におけるもう一つの領域、明石には小笠原忠政(1596~1667 後に49歳のとき忠真〔ただざね〕に改名)が配置された。小笠原忠政は大坂戦争で父と兄が戦死したため、小笠原の家を相続した。そして彼は、亡き兄の妻をも引き継いだ。彼女は本多忠政の娘・亀姫であった。つまり、小笠原忠政は本多忠政の娘聟である(1)。こうして、本多家と小笠原家は、お互いに親戚同士であり、徳川将軍家と深い縁が結ばれた大名として、戦略的に重要な播磨国を、ともに協力して統治することになった。
武蔵は、当時30代の壮年、彼の故郷・播磨の新しい領主となった、本多忠政とその息子や甥たち、そして明石の小笠原忠政と親交を結んだ。武蔵は最強の兵法者であるだけではなく、学問芸術に造詣の深い、文武両道の模範のような人であったから、武蔵を重用したのである。武蔵も、彼の故郷播磨に赴任してきた彼らに協力することで、播磨地方の民生向上に寄与することを願ったであろう。大坂戦争後の新体制は、元和偃武〔げんな・えんぶ〕(元和の戦争終焉、平和の到来)と呼ばれる。
既述のように、武蔵は、大坂戦争のおり、水野勝成の部隊に属して参戦した。その後、勝成の家臣・中川志摩之助の三男・三木之助(1604~26)を養子にして、姫路の本多家に出仕させた。こうして、武蔵は姫路に宮本家を創設したのである。三木之助は、本多忠政の嗣子・忠刻の小姓(側近)となり、武蔵の息子として700石を与えられた(2)。彼は将来にわたって本多家の柱石になるはずであった。また、この姫路での宮本家創設を期に、武蔵は「宮本」を名のるようになったのであろう。姫路城の西方三里、故郷の宮本村にちなんだ姓である(3)。
また他方で、武蔵は小笠原忠政の領地・明石とかかわるようになった。小笠原忠政が赴任して最初の任務は、明石城とその城下町の建設、そして明石港の建設であった(1618~19年)。姫路城主・本多忠政は、この娘聟のために明石城の縄張(設計)を指導した(4)。武蔵もこれに協力し、自らの知識と経験を生かして、明石の城下町の町割(都市計画)にあたった(5)。これは武蔵の軍学者としての側面であるが、同時に、武蔵は芸術家として明石城内の庭園と茶室のデザインも手がけた(6)。日本文化における庭園芸術の特性と本質からして、庭園の設計は深い知的芸術的造詣なしには可能ではない。とくに茶の道を機軸にした美意識の洗練という文化的遺産を武蔵は受け継いでいる。
しばらく武蔵の周辺も平穏であったが、姫路城主・本多忠政の嗣子・忠刻が、1626年病死した。武蔵の養子・三木之助は、忠刻の側近であった。彼は忠刻の初七日(死後7日目)に殉死した。享年23歳であった(2)。これをみるに、三木之助は主人・忠刻と特別な関係にあったらしい。
三木之助が殉死したので、宮本家は彼の弟・九郎太夫が家督を相続し、名も三木之助を襲名した(2)。つまり、三木之助は死んだが、姫路宮本家は、九郎太夫が本多家に仕えて存続したのである。のちに本多家が、姫路から大和郡山へ配置転換になったときも、九郎太夫の宮本家は、主人の本多政勝に従って彼地へ移っている(2)。
嗣子・忠刻が死んだので、本多忠政は二男・政朝を後嗣に決めた。政朝は龍野城主であったが、この措置により、父・忠政の姫路城へ移った。後任の龍野城主は、12歳の小笠原長次〔ながつぐ〕(1615~66)であった。長次は、明石城主・小笠原忠政の甥であり、姫路城主・本多忠政からすれば孫(娘の子)にあたる。
小笠原忠政は、大坂戦争で戦死した兄・忠脩(1594~1615)の遺児・長次を手許において養育していた。小笠原忠政は、長次が成人したら、小笠原家の家督を長次に譲るつもりでいた。ところが、長次は、本多忠刻の死という偶然のきっかけで、龍野領を与えられて大名として自立できたのである。ちなみにいえば、龍野領には武蔵の出生地・宮本村を含むから、長次は武蔵の故郷の領主となったわけである。武蔵がこの新龍野城主・小笠原長次の世話をやいたであろうことは想像に難くない。
三木之助が殉死した年、明石の小笠原忠政のもとに、15歳のある少年が出仕した。彼は、播磨国印南郡米田村の田原久光の二男で、名は貞次である。翌年、この田原貞次は武蔵の養子になった(7)。これは、小笠原忠政の仲立ちで、武蔵がこの少年の器量を見込んで養子にしたものらしい(8)。彼が宮本伊織(1612~78)である。武蔵は彼を養子にして、明石でもう一つの宮本家を創設した。こうして、播磨国の姫路と明石で、1632年までのしばらくの間、二つの宮本家が並立していたのである。
武蔵の養子になった伊織は、忠政の側近として小笠原家中で頭角を顕し、20歳で家老となったという(7)。家老は家中の最高重役の一人であるから、異例の出世である。武蔵の息子という威力も大きかったであろうが、伊織自身に他人にまさる特別な才能器量があったようだ。
ところで、この伊織について、奇怪な伝説が後世の武蔵伝記にみられる。筑前の伝説では、彼は商人の子である(9)。肥後の伝説では、遠い出羽国の貧農の子、泥鰌取りの孤児である(10)。どちらも明白な謬説であるが、これらの伊織伝説は、武蔵が特別な人物鑑識眼をもって、武家ではない少年の才能を見抜いたというテーマの逸話であるから、伊織は商人の子や貧農の孤児にされてしまったのである。これは、三木之助を西宮の馬子にしてしまうのと同じ伝説のメカニズムである。
この播州時代、武蔵は姫路を中心に西の龍野や東の明石を行き来して、それぞれの町に滞在し、兵法や軍学を教え、あるいは絵画や書など芸術作品を生みだしていたであろう。また、武蔵は生涯、どの大名にも仕官しなかった自由人であったから、この時期、播磨に限らず、京都や江戸など他の地方へも出歩いて、さまざまな人々や文物に触れていたであろう。ただし、そうした武蔵の活動を記録する史料や作品は、江戸中期には散佚滅失して現存していない。
彼の『五輪書』によれば、無敗のまま20代で決闘勝負は卒業したが、30歳ごろから、日夜兵法の自己修行に励んで、20年後、50歳ごろになって、ようやく自身で納得できるようになった、と記している(11)。決闘勝負を卒業した後のこの「事後」の自己修行は、思うに武蔵的なものの特質を示す行為であろう(12)。これは彼の30代~40代のころにあたり、播磨時代はほぼその時期に重なる。すなわち、播磨時代は、彼の「事後」の自己修行の時期である。
このころ、武蔵は播磨で兵法を教え、弟子たちがあったと思われるが、具体的なことは不明である。ただし、龍野に武蔵流兵法の資料が残っており、それによればこの時期の弟子たちの名が判明する(13)。しかし、それにしても、それぞれの人物の具体的な情報は得られない。また、尾張国や江戸にも弟子があったという伝説があるが、確かな史料はすでに失われて存在しない。
(1) それより以前に本多家と小笠原家は親戚関係にあった。徳川家康の嫡男・信康(1559~79)の長女・登久姫(1576~1607)は小笠原秀政の妻になり、次女・熊姫(1577~1626)は本多忠政の妻となった。この姉妹の母は織田信長の娘・徳姫であり、彼女たちは、徳川家康の孫であり同時に織田信長の孫であった。彼女たちの父・信康は、若くして死んだ。信長の意向を受けた家康に切腹を命じられて自殺したのである。彼女たちは家康の養女となり、そして小笠原秀政と本多忠政にそれぞれ嫁した。小笠原忠脩〔ただなが〕・忠政の兄弟はともに小笠原秀政と登久姫の子であり、織田信長と徳川家康の曾孫にあたる。
(2) 「宮本先祖」。宮本小兵衛(三木之助の甥)による家系申告文書。『吉備温故秘録』(大沢惟貞編 18世紀末)に収録。なお、『丹治峯均筆記』(立花峯均著 1727年)に、三木之助を「造酒之助」とし、摂津西宮の馬子とするのは、筑前ローカルの伝説である。また、『東作誌』(正木輝雄著 1815年)所収の新免氏系図に、三木之助を「三喜之助為貞」とし、新免宗貫の孫とするのは、後世美作地方で生じた我田引水による荒唐無稽な珍説である。
(3) 武蔵は新免の家を相続したから、彼が養子して家を興すとなれば、「新免」家でなければならないが、武蔵はそうしなかった。これはおそらく、武蔵にとって実父の家を再興するという位置づけもあろうが、やはり本質は無からの創造である。ことさら故郷の村の名にちなんで在名の「宮本」家としたのは、そのためである。武蔵実父が宮本氏であったのではない。宮本姓は武蔵の代からの新しい名のりである。武蔵の実家は、赤松系の氏姓をもつ家であっただろう。他方、武蔵が再興した兵法の家・新免家は、結局武蔵一代で終った。いかにも武蔵らしい処分である。武蔵死後数十年、肥後で、寺尾求馬助の息子が新免弁助を名のった例があるが、武蔵生前に新免家の養子を設けた事実はない。
(4) 『采邑私記』〔さいゆうしき〕(太田小左衛門著 17世紀末)。
(5) 『明石記』上巻「金波斜陽〔きんぱしゃよう〕」(長野升大夫著 1720年ころ)、『播磨鑑』(平野庸脩著 18世紀中期)。
(6) 小笠原家文書。「清流話」(18世紀前期)、「小笠原忠真一代覚書」(18世紀中期)。ただし、明石城内に武蔵が設計したというこの庭園(樹木屋敷)のゾーンは、5万㎡はある広大なものだが、現在陸上競技場になっており、遺構すら埋没して現存しない。惜しむべし。また、明石市内及び近郊の寺院数箇所に、武蔵作と伝える庭園が存在するが、これらはどれも後世の伝説によるものである。
(7) 泊神社棟札(宮本伊織撰文 1653年)。小倉宮本家系譜(19世紀中期)。
(8) 『播磨鑑』(平野庸脩著 18世紀中期)。
(9) 筑前系の武蔵伝記『丹治峯均筆記』(1727年)。
(10) 肥後系の武蔵伝記『武公伝』および『二天記』。
(11) 『五輪書』地之巻。
(12) この「事後」の自己修行について言えば、ふつうは、修行してのち勝つ、という次第で、勝てば目的成就して終り。ところが、武蔵のケースでは、勝っても終りではなかった。それが武蔵をして延々と60数回も勝負を続けさせたものであろうが、結局は、30歳になって気づいた。勝ってのち修行する、という逆のプロセスがあった。『五輪書』地之巻によれば、武蔵は20代までに、60回以上勝負をして勝ったのだが、武蔵には、なぜ自分が勝ったのか、納得できなかった。何度やっても勝ってしまった、なぜ自分が勝ったのか? それを探求するプロセスが「事後」の修行である。修証一如は禅家のテーゼ。だが、武蔵の「事後」の自己修行は「証後の修」であり、いわば即自的なものを対自化するプロセスである。天才というものは、不可避的に同じ道を(逆方向に2回歩んで)往復する。それが、武蔵的なものの様相のひとつである。
(13)「円明流系統図」(1721年)。これに記された武蔵から印可あるいは免許を受けた高弟は、落合忠右衛門、多田半三郎、山田淤泥入、石川主税、市川江左衛門らの名がみえる。しかし印可・免許の弟子とあるが、落合を除き、それら証書の原本も写本も現存しない。