6.死とその後
五輪書と武蔵の死
1643年冬、60歳の武蔵は『五輪書』の執筆を開始した。執筆に先立ち、10月上旬熊本の西にある岩戸山〔いわとのやま〕に登り、観音と諸仏に執筆成就を祈願した。ここは、岩戸観音という観音信仰の霊場として今も残っている。霊巌洞〔れいがんどう〕という洞窟があって、ここが武蔵が『五輪書』を書いたという伝説の場所になっている(1)。
ところが、翌1644年、熊本近郊の村に住んでいた武蔵は病に倒れた。そのため、武蔵の病床に医師が派遣され、治療にあたった。しかし在郷の田舎では治療も思うようにできない。そこで、家老の長岡興長・寄之父子が、熊本へ戻って療養するようにと要請した。ところが武蔵は同意しない。主君の細川光尚も、武蔵の容態をことさら心配して、医者を度々派遣し、いろいろ治療にあたらせたが、やはり郊外の村にいては療養の指図もできかねる。それで光尚は武蔵に、熊本へ戻るよう再三の勧告。そこでようやく、11月16日、武蔵は熊本へ連れ戻された(2)。
武蔵の病気は、伝説によれば、どうも胃癌らしい(3)。これにより武蔵は急速に病が重くなったようで、『五輪書』の執筆もできなくなり、草稿のままで完成稿にいたらなかったという(4)。武蔵が死の直前まで『五輪書』を執筆し、同書を完成して死んだ、というのは根拠なき謬説である。
1645年5月19日、武蔵は熊本市中で死亡した(5)。死の7日前、武蔵は『五輪書』を草稿のまま、門弟の寺尾孫之允(1613~72)に与えた(6)。また同時に彼の弟・寺尾求馬助(1621~88)に兵法書を与えたという伝説がある(7)。兄の寺尾孫之允は仕官しない人だったが、弟の求馬助は細川家臣で、主命により武蔵の病床について看病した人である(8)。
武蔵の葬儀は肥後熊本の泰勝院(細川家菩提寺)で執行され、武蔵の墓所まで準備されたというから(8)、武蔵の遺体はいったん肥後に葬られたらしい。そのとき、武蔵の遺言で、彼の遺体は鎧兜を着用した武装の姿で棺に入れられたという伝説がある。しかし武蔵の埋葬地も不明であり、肥後の伝説はさまざま増殖しており、埋葬をめぐる実際については確認できない(9)。
武蔵の死後9年たった1654年、宮本伊織が、豊前小倉郊外の山に、武蔵のための巨大なモニュメントを建碑した。この碑文に記された武蔵の略伝が彼の最初の伝記である(5)。
この石碑はご覧の通り、現代アートとしてみても面白いデザインで、伊織周辺の芸術サロンの所在を推測せしめる逸物である。だが、通例の記念碑と異なり、法号や命日など墓誌を有するから、伊織はこれを武蔵の墓碑として建立したのであろう。この石碑の設置のときまでに、武蔵の遺体も小倉に移されたようである(10)。しかし武蔵は、「おれには墓などいらん」という人であったはずで、そのため伊織は建碑にあたり、このような異例のかたちのモニュメントにしたのであろう。
(1) 『五輪書』地之巻冒頭の序文。『五輪書』執筆開始は10月10日である。ただし、武蔵が霊巌洞で『五輪書』を執筆したというのは誤れる俗説である。『五輪書』によれば、武蔵はこの岩戸山に登って祈願したというのみであり、霊巌洞で『五輪書』を執筆したとは書いていない。前後の状況を考慮すれば、武蔵は熊本近郊の村に居て同書を書いたのである。
(2) このあたりは、宮本伊織宛長岡寄之書状(1644年11月18日付)に詳しい。これに対し、肥後系武蔵伝記は、発病した武蔵が岩戸山の霊巌洞に入ってそこで死のうとした、という伝説を記す。『武公伝』によれば、武蔵の発病は正保2年(1645)の春で、武蔵は市中の喧噪を厭い、岩戸山に行き、霊岩洞の内に入り、静かに終命の期を迎えようとしたという。これは、『五輪書』冒頭の記述から、武蔵が岩戸観音と結びつけられ、そのうち、こんなロマンチックな霊巌洞伝説が生じたのである。それに、武蔵の発病が正保2年の春という説も誤りである。
(3) 筑前系武蔵伝記『丹治峯均筆記』。同書によれば、武蔵の病は「噎膈〔えっかく〕」であるそうな、という伝聞情報である。ここにいう噎膈は膈噎〔かくいつ〕、これは嘔吐症状のことで、胃癌によるものと思われる。
(4) 同前。『五輪書』原本は現存しないが、諸写本を見るかぎりにおいて、たしかに、未完成の草稿であったことを示す部分が随所にある。
(5) 1654年宮本伊織が建碑した武蔵記念碑の碑文。通称「小倉碑文」。
(6) この「5月12日」という日付は、どの伝記にも特記しているが、のちに寺尾孫之允が伝えた『五輪書』に記された日付以外に典拠はない。
(7) 肥後系武蔵伝記『武公伝』。5月12日に武蔵が寺尾孫之允に与えたとするが、さらに寺尾求馬助に39箇条の兵法書を与えたという記事を記す。同じく『二天記』には、寺尾求馬助に35箇条の兵法書を与えたという記事を記す。肥後系伝説におけるこの「39箇条」と「35箇条」の相違は興味深い。ただし、「39箇条」であれ「35箇条」であれ、武蔵が寺尾求馬助に兵法書を与えたという伝説は肥後のみにあって、同じ九州の筑前にさえ存在しない話である。また武蔵が寺尾求馬助に与えたことを示す署名宛名を記す兵法書は、原本も写本も存在しない。これは肥後の道統末流において、寺尾求馬助の系統を正系とするため、後世生じたローカルな伝説である。
(8) 長岡是季宛宮本伊織書状(1645年5月29日付)。長岡是季は米田氏、監物是季(1586~1658)、当時細川家家老で、一万石知行。武蔵と同じ世代の人物である。
(9) 武蔵伝記『武公伝』および『二天記』が記す肥後の伝説。武装した武蔵の遺体を棺に入れて埋葬したとするのは、武蔵を守護神に見立てた後世の伝説である。また武蔵の埋葬地は、『武公伝』・『二天記』の両書で異なり、一定しない。現在熊本で武蔵の墓と呼ばれているのは、後世設置された記念碑であり、武蔵の墓ではない。
(10) 筑前系武蔵伝記『兵法先師伝記』(丹羽信英著 1782年)。武蔵の墓が肥後にあっては墓参に不便だからということで、武蔵の遺体を引取って、小倉近くの赤坂山に墓を移した。もとより遺骸を運ぶのだから、大変なことだったそうだ、とある。これは著者が宮本伊織の子孫から聞いた話であろう。
武蔵が遺したもの
武蔵が遺したものは、兵法教本『五輪書』と、武蔵流兵法のいくつかの門流である。もう一つは、芸術作品であり、水墨画と書、あるいはさまざまな工芸品である。
とくに晩年をすごした肥後は、物持ちのよい土地柄のようで、武蔵の現存遺品の多くは、肥後から出たものである(1)。約5年ほどの短期間の滞在で、一地域でこれだけの数のものが出るということは、それより前の数十年間に他地方で遺した遺品は、かなりの数量に達するはずであるが、残念ながらそれらはさして残っていない。多くが失われたのである。
筑前系武蔵伝記の一つによれば、武蔵流の兵書が江戸の古本屋で入手できることもあったらしい。著者の知る『五輪書』とは似ても似つかぬ、低級な内容だったようだが、とにかく、武蔵流の兵書なるものが、江戸の古本屋に出回り、それを収集していた者もあったようである(2)。
また同書によれば、江戸では武蔵の水墨画が出回っているから、江戸へ出たら探してみるように、と言い、著者の父が、江戸で武蔵の絵画作品を入手して狩野派の絵師に見せ、云々という逸話を記している(3)。
これを一つの証言と読めば、おそらく、武蔵流の兵法書も、また武蔵作品も、江戸では相当出回っていたようである。それらには真物・贋物どちらもあっただろうが、武蔵があちこちで遺した兵法書や美術作品が、18世紀には、江戸の骨董マーケットに集まり、売買されていたという光景が眼にうかぶようである。
このうち、最も有名なエピソードは、渡辺崋山(1793~1841)が江戸で売りに出ていた武蔵の絵画作品と遭遇したという話である。崋山はその絵が欲しかったが金がない。どうしても欲しいので、それを友人に買わせて、匣書〔はこがき〕を認めた(4)。これが、かの「枯木鳴鵙図」、今や国の重要文化財である。よくぞ、のこった、というべきである。
それというのも、過去に画家文人が所持あるいは実見した武蔵作品が、現存しないからである。たとえば、白井華陽は、京都の東寺観智院に武蔵の山水人物画があるという(5)。あるいは、田能村竹田は、自身所蔵の宮本武蔵の布袋和尚像の説明をしており、また朱を施し胡粉で充填して濃厚を極めた着色の馬十二匹の絵の話も語っている(6)。しかし、19世紀前期に存在したこれらの作品は、いずれも現存しないのである。武蔵が制作した作品のうち、今日まで残ったものは少ないとみるほかない。想定しうる武蔵作品の数からすれば、現存作品はあまりにも少ないのである(7)。
それは、武蔵の兵法書にしても同様で、今日では、武蔵が晩年草稿のまま残した『五輪書』(自筆原本はなく、多数の写本のみ)と、そのほか関連兵書数点しか現存しない。しかも、それら関連兵書は、武蔵が関与したかどうか疑わしい。というのも、『五輪書』は武蔵の最初にして最後の兵法書だったからだ(8)。
そのような有形遺品とは別に、いわば無形の遺産として、武蔵流兵法がある。壮年期の門流は、播磨と尾張にそれぞれ「円明流」として、あるいは本多家中に「武蔵流」として残った。江戸にも武蔵門流があったもようだが、確かな資料がのこっていない。これに対し、武蔵晩年の肥後に発する、武蔵流の系統は明らかである(9)。
ところが、肥後の武蔵流、いわゆる二天一流ないしは二天流は、寺尾求馬助の系統を正系として主張する。寺尾求馬助にのみ武蔵の兵法は伝えられたとする(10)。これに対し、寺尾孫之丞の弟子・柴任美矩から出た、筑前二天流では、武蔵の兵法は寺尾孫之丞一人だけに伝わったとする(11)。そのように筑前と肥後では武蔵流末の間で伝承にも食い違いが生じるようになった。
それでも、本家争いのある間はまだ活力があったというべきである。それも18世紀中のことで、19世紀になると、筑前と肥後の武蔵流兵法は衰微していった。筑前の武蔵流末の伝系は、明治期まで確認できる。また、肥後の伝系の一部は大正期まで存続した。現在は、それらが再興されて、存続するようになっているが、実態はいわば無形文化財のようなかたちである。
武蔵死後、伊織が建立した小倉の武蔵記念碑の頭冠部には、「天仰実相円満兵法逝去不絶」(天は仰ぐに実相円満、兵法逝去して絶えず)という武蔵遺偈が掲げられているのだが、武蔵が逝去して150年も経てば、武蔵が遺した兵法は、すでに危殆に瀕していたのである。
徳川時代末期の幕末(19世紀中期)には、革命情勢のもと、テロリズムが横行する事態になって、実戦向きの戦闘術が求められた。兵法剣術は衰退するどころか、むしろ隆盛になったのである。だが、武蔵流兵法の末裔にはそんな気配はなかった。すでに実戦向きの兵法ではなくなっていたのであろう。こういうことからすれば、――武蔵流は、本質的には、天才武蔵以外には使えない。凡人向きの兵法ではない。武蔵一代限りの兵法であった。それゆえ、武蔵流兵法が百年以上もよく続いたものだ――と、そんな逆の言い方もできる。
しかし、興味深いことに、宮本武蔵という存在は、今日ですら、日本人の心を刺激する存在である。それぞれの時代精神のフレームに応じた武蔵像が生み出され、武蔵はいわば不滅の存在となっている。武蔵が遺したものは、まさにそのように絶えず日本人の心を刺激する「宮本武蔵」という名である。
(1) 肥後系武蔵伝記『武公伝』は、武蔵が肥後で遺した遺品と書画作品をリストアップしている。それは作者が知りえたかぎりの範囲のものであり、他にもあったようである。
(2) 筑前系武蔵伝記『兵法先師伝記』(1782年)。当流の兵書とて世間に所持する者あり。あるいは江戸の古書物屋などにて求め來りたることもあり、とある。これは18世紀中期のことであろう。
(3) 同前書。著者の父・桐山丹英は、筑前黒田家重臣。主君黒田継高に登用され、御納戸頭として藩政中枢において短期間ながら権勢をふるったが、1729年失脚した。桐山丹英は、1722年立花峯均から二天一流の相伝を受けた三人のひとり。この武蔵絵画の逸話は、18世紀前期の話であろう。
(4) 渡辺崋山「枯木鳴鵙図匣書」(1820年)。渡辺崋山は江戸後期の代表的な文人、国宝「鷹見泉石像」はじめ絵画にもすぐれた作品が多い。
(5) 『画乗要畧』(白井華陽 1831)。
(6) 『山中人饒舌』(田能村竹田 19世紀前期)。
(7) 後出の付録・文武二道「アーティスト武蔵――伝武蔵作品について」参照。
(8) 関連兵書の類には、武蔵が寺尾求馬助に与えたという「兵法三十五箇条」、何かの序文らしい「五方之太刀道」、武蔵自誓書として豊田家に伝わった「独行道」、播州龍野円明流伝書の「兵道鏡」などがある。ただし、これらは武蔵著述文書とするには何れも問題がある。『五輪書』の中で武蔵は、はじめて兵法書を書く、と再三述べているからである。
(9) 後出の付録・文武二道「武蔵流兵法伝系図」参照。
(10) たとえば、『兵法二天一流相伝記』(志方之経著 1742年)。
(11) 筑前系武蔵伝記『丹治峯均筆記』。