生國播磨の武士、新免武藏守藤原玄信、年つもりて六十。我若年の昔より兵法の道に心をかけ、十三歳にして始て勝負をす。(中略)われ三十を越て跡をおもひミるに、兵法至極してかつにハあらず。をのづから道の器用ありて天理をはなれざる故か、又ハ、他流の兵法不足なる所にや。其後、猶も深き道理を得んと、朝鍛夕錬して見れバ、をのづから兵法の道に逢事、我五十歳の比也。それより以來は尋入べき道なくして光陰をおくる。兵法の利に任て諸藝諸能の道となせバ、万事におゐてわれに師匠なし。 (五輪書・地之巻) |
[資 料 篇] 目 次 |
武蔵に関する議論は多い。しかし、問題を解くには原テクストに当ってみるのが最善の方法である。そこで、このサイトに関連する資料を集め、必要に応じて解題・評注を加えたのが、この資料篇である。 あわせて、ここでは武蔵論諸家のテクストを、関係部分を引用し評注つきで掲載する。おそらくは武蔵研究史の諸見解の何たるかを識る便となろう。 この資料篇は、以後順次追加される予定であり、「準備中」とあるのは掲載予告である。 下欄各タイトルをクリックすれば、それぞれの資料のページへ移動 |
special 武蔵の五輪書を読む 五輪書研究会版テクスト全文 現代語訳と注解・評釈 | 武蔵の兵法書『五輪書』は近世日本思想史における事件ともいうべし。ここでは革命的五輪書研究との評価のある五輪書読解プロジェクトの成果を公開するとともに、オリジナルの五輪書研究会版テクストを提示し、現代語訳を附す。さらに五輪書異本多数を[異本集]として附録。最高・最強とされる最前線の五輪書研究サイト。不及是非、研究者必可見! |
林羅山 新免玄信像賛 | 林羅山(1583~1657)は武蔵と同世代。周知のごとく羅山は、家康以来四代にわたり幕府に仕えた儒官。近世日本朱子学の開拓者。羅山は武蔵とは旧知の間らしく、他に武蔵作周茂叔図に賛を寄せた例があるが、羅山文集(寛文二年刊)に収録されているのが、この新免玄信像賛。ここでは『武公伝』『二天記』とあわせ読んで今日の謬説を糺す。 |
宮本伊織 泊神社棟札 | 武蔵の養子・宮本伊織は、自身の故郷、播州印南郡米田村周辺諸邑の氏神・泊神社再建に関わり、自撰の棟札を遺した。これが今日に現存する。武蔵関係史料として「超」のつく第一級資料である。しかるにこれまでその内容が世間に誤って宣伝されてきた。ここでは棟札の原文全文とその読み下し・現代語訳、及び詳細な注解を附し、従来の妄説を匡す。 |
播磨史の基本文献 地志播磨鑑 1.武蔵と伊織の出生地 2.伊織の詳細記事 | 武蔵は「生国播磨」と記しているが、その播磨のどこなのか、出身地を特定する文献。地元播磨の学者・平野庸脩によるこの『地志播磨鑑』〔はりまかがみ〕は播磨地方史研究の第一級基本文献。従来、武蔵研究において無視されてきたこの文献の重要性は、改めて認識されねばならない。ここでは宮本武蔵・伊織関連記事を収録し、その現代語訳、および註解を附す。 |
宮本武蔵顕彰碑 小 倉 碑 文 | 武蔵顕彰のために宮本伊織が、武蔵十回忌にあたり九州小倉(現・北九州市小倉北区)に建てた記念碑。武蔵史料としては、上記泊神社棟札に次ぐ古いものである。同時に、武蔵伝記資料として最古であり、ここからさまざまな武蔵伝説が成長したという点で、根本的テクストとしてのステイタスをもつ。ここでは碑文原文とその読下し・現代語訳、及び全文評釈を附す。 |
武蔵伝記の基本文献 宮本武蔵伝記集 【 New! 】 | かつてどんな武蔵伝記が書かれていたか。しかし現在、断片引用されるばかりで、件の伝記を通読せしめる資料がない。そこで多くの要望に応え、十八世紀江戸時代に書かれた代表的な武蔵伝基本文献4点、すなわち、『丹治峯均筆記』『武公伝』『二天記』『兵法先師伝記』を収録し、「宮本武蔵伝記集」として編むことにした。なお、テクスト全文、およびその現代語訳、さらに評註を付し読解の助けとする。 |
江戸時代の武蔵小説 絵本二島英勇記 | 江戸時代の代表的な武蔵物読本、武蔵小説の元祖とも可謂。武蔵はここでは宮本無三四、実父は吉岡太郎右衛門、養父は宮本武右衛門、そして無三四の実父吉岡を殺したのが佐々木巌流。無三四は父の仇巌流を討つため武者修行の体で諸国遍歴。そんな設定ではじまる物語は巌流島の決闘において大団円。享和三年(1803)の刊本からテクスト校訂のうえ現代語訳を加え、またとくに本文と絵図を画像で収録する。 |
美作説の根拠史料 吉野郡古事帳文書 | 武蔵美作出生説の根拠文書。津山藩は領内諸村に古事帳の提出を命じた。このうち下庄村と宮本村の古事帳が写しが伝わる。その内容について、史料批判に耐えうるものか否か、それを内在的に検証する必要がある。ここでは、武蔵研究史上はじめて古事帳二文書の読解を行い、関連箇所原文とその現代語訳、および評註を付す。 |
美作説の基本文献 東 作 誌 | 津山藩士・正木輝雄の著述による文化十二年(1815)の『東作誌』は、先行する未完の『作陽誌』が記述を欠く美作東部諸郡を補完するため書かれた地誌である。本書は言うまでもなく美作説の最も基本な文献であり、そのステイタスは現在でも不変である。ここでは、関連箇所原文とその現代語訳を示し、詳細な読解による評註を付す。 |
新免氏九州末孫の伝説 筑前新免氏系譜 | 関ヶ原役の後、新免氏当主の宗貫は九州へ去り、黒田長政に召抱えられた。以後筑前に新免子孫が存続した。18世紀後期作成の新免氏系譜あり、そこに「宮本無二之丞」の記事がある。従来これを援用する武蔵研究があったが、それは信憑しうる資料なのか。ここでは、関連箇所原文とその現代語訳を示して詳細な評註を付し、史料評価を行なう。 |
初期美作説 美 作 略 史 | 『東作誌』校訂者である郷土史家・矢吹弓斎正則の著作。美作国の歴史を編年体で誌した史書、刊行は明治十四年(1881)。美作説の原型とはいかなるものかを知るには、格好の文献である。ここでは、関連箇所原文とその現代語訳を示し評註を付す。 |
宮本武蔵遺蹟顕彰会 宮 本 武 蔵 | 熊本の宮本武蔵遺跡顕彰会編の武蔵伝記『宮本武蔵』(明治四十二年刊)。本書で提唱された美作出生説は、これに依拠した吉川英治の武蔵小説が大成功したこともあって、百年にわたり長く支配的通説となった。ここでは関係部分を註解するとともに、その論説を批評する。 |
水南老人講話 宮 本 武 蔵 | 京都の大日本武徳会の役員・楠正位は水南老人と称し、明治四十三年から四十四年にかけて武徳会の機関誌『武徳会誌』に連載した講話「宮本武蔵」は、宮本武蔵遺蹟顕彰会の『宮本武蔵』とともに大正昭和と後に大きな影響を与えたもの。ここでは、関連箇所に評註を付して読む。 |
山田次朗吉 日本剣道史 | 直心陰流の明治の剣客・山田次朗吉の『日本剣道史』(大正十四年刊)。支配的通説たる宮本武蔵遺蹟顕彰会本『宮本武蔵』を批判し「殊更牽強に近き説也」とする。『播磨鑑』に依拠する大正期の播州宮本村説。ここでは関係部分を引用し註解するとともに、その論説の誤りを匡す。 |
森 銑三 宮本武蔵の生涯 【準備中】 | 近世書誌学の森銑三は、当時、吉川英治『宮本武蔵』の大人気という状況のなかで、吉川の『随筆宮本武蔵』を痛烈に批判した。山田次朗吉の指摘を嗣いで『播磨鑑』に依拠する戦前の播州宮本村説。ここでは本書中関係部分を引用し註解するとともに、その論説の誤りを正す。 |
兵庫県石海村史・付録 川嶋右次 宮本武蔵の出生地考 | 戦時中、有名な吉川英治『宮本武蔵』『随筆宮本武蔵』の美作産地説に異議を唱えた人が地元にあった。郷土史家の川嶋右次である。『兵庫県石海村史』に付録されたこの一文は、偶然にも、我々の研究プロジェクト展開の引鉄の役を果たした。よって、それを記念しここに収録する。 |
福原浄泉 宮本武蔵の研究 【準備中】 | 福原浄泉は美作説ご当地の武蔵研究家。美作説に関する限りその水準を抜く研究は現在も存在しない。所説は部分的に変化が見られるが、ここでは彼の研究の集大成ともみえる「宮本武蔵の研究」(昭42年)を中心に、福原の美作説を取り上げて、これを検証し批評する。 |
綿谷 雪 宮本武蔵の周辺 【準備中】 | 綿谷雪〔わたたにきよし〕は忘れられた重要な武蔵研究家である。とくに播磨説を断固主張する 異端者として孤軍奮闘した。そのユニークな武蔵複数説も記憶に値する。ここでは著作から論文数点を取上げ、その元祖・米田村産説たる関係部分を註解し誤りを指摘し批評する。 |