宮本武蔵産地論争入門 Q & A Next 
生國播磨の武士、新免武藏守藤原玄信、年つもりて六十。我若年の昔より、兵法の道に心をかけ、十三歳にして始て勝負をす。其あひて、新當流有馬喜兵衛と云兵法者に打勝、十六歳にして、但馬國秋山と云強力の兵法者に打かち、二十一歳にして、都へのぼり、天下の兵法者に逢、数度の勝負を決すといへども、勝利を得ざると云事なし。其後、國々所々に至り、諸流の兵法者に行合、六十餘度迄勝負をすといへども、一度も其利をうしなはず。其程、年十三より二十八九迄の事也。 (五輪書・地之巻)
 歴史上の人物で、だれでも知っている人なのだが、その人がどういう生涯を送ったか、詳しいことはほとんどわかっていない、という人物は多い。宮本武蔵もその一人であることはたしかである。
 宮本武蔵はまさに有名な歴史的人物というだけではない。すでに江戸時代に歌舞伎・浄瑠璃に演劇化され、近代に入ってなおもその英雄伝説の勢いは衰えず、むしろ逆に、吉川英治の小説『宮本武蔵』の大成功以来、国民的ヒーローの代名詞となって、その後も依然「武蔵小説」は数多く書かれ、映画や演劇にも武蔵作品は多い。
 武蔵は剣豪として歴史に記憶された人物、ところが他の多くの「剣豪」たるや、この武蔵に比すれば、およそ伝記史料が不足している。たとえば、上泉秀綱とか富田勢源とか塚原卜伝など、武蔵に先行する重要な人物でも、その事蹟はほとんど不明である。
 武蔵は、彼らに比較すれば、異例なほど後世有名になってしまった人物であるが、大衆的人気を博した伝説上の人物であるだけに、異説異伝もことさらに多い。それらが邪魔をして、武蔵の真実が曇ってしまって、よく見えないという始末である。
 かくして、「真説」宮本武蔵を称する評伝の中にさえ謬説夥しく、とうてい武蔵の真実を伝えるものではない。とりわけ、武蔵の出生地に関しては、まさに謬説が世間では支配的となっている。今こそ、そうした「通説」化した謬説は正され、いわば「武蔵の真実」が明らかにされねばならない。
 ことに、武蔵の産地、出生地に関しては、十九世紀以来、諸説花盛りとなり、それが今日に及んでいるのである。あるいは、美作生れだという説も出れば、いやいや播磨生れだという説があり、その播磨産地説でも、印南郡米田村説、揖東郡宮本説の異説があったりする。
 そうして現在、ほぼ二世紀にわたるその諸説紛糾状況も最後にして、武蔵研究におけるこの問題に、そろそろ決着をつける時期に来たのである。
 本サイトでは、この武蔵産地論争に決着をつけるべく、多くの論文が掲載公開されている。以下は、公開された諸論考骨子を要約したものである。詳しくは諸論文に当っていただくことにして、ここでは簡便を期すため、Q&A形式で、要点のみを示し、入門案内としたものである。





新免玄信提二刀像
[Q] 宮本武蔵は、いつごろの時代の人か。[A] 生まれたのは、豊臣秀吉が天下を手中にしたころ。死去したのは、徳川は三代将軍・家光の時代、島原の乱の後、というあたりだ。織豊期(安土桃山時代)から江戸時代初期、という時代である。したがって、武蔵は今から四百年ほど前の人である。[Q] 生まれた年、亡くなった年は、はっきりわかっているのか。[A] 亡くなったのは、正保二年(1645)五月十九日、肥後の国熊本に卒す、と墓誌にあるから、はっきりしている。生まれ年は、直接史料はない。ただし、武蔵が『五輪書』で、執筆開始年月日と、そのときの年齢を書いているから、これによれば、当時六十歳、そこで、逆算して、天正十二年(1584)生まれとなる。[Q] 武蔵はどこで生まれたのか。[A] 『五輪書』に「生国播磨」と書いているから、武蔵の産地(出生地)は播磨である。播磨というのは、現在の兵庫県に属する地域だ。[Q] 美作(岡山県北東部)生まれという説もあるが、それはどうか。[A] これは、十九世紀になって出てきた異説である。それ以前の史料では、武蔵は播磨の人とある。それよりも、武蔵自身が『五輪書』に「生国播磨」と書いている以上、武蔵の産地は、播磨としなければならない。[Q] 美作の宮本村には、武蔵の墓も両親の墓も、それに系図もある、証拠は揃っているというが。[A] 当地にある武蔵の墓は明治になって建てた代物。「両親」の墓は武蔵歿後百五十年以前には溯らないもの。文書や系図は後世になって作成されたもの。ゆえに、根拠資料はないとすべきである。伝説だけでオリジナルの物証がないのは、十九世紀の『東作誌』の著者が確認している。
 したがって、美作生れの証拠があるなどというのは、近代になって発生した錯覚である。何ごとであれ史料物証は、それがいつ作成されたか、オリジナルか複製か、をきちんと調べてから、物を言うべきである。[Q] 美作の宮本村には、武蔵の子孫が現存している。それが何よりの証拠だという話もあるが。[A] 系図は後世作成になるもの、それを根拠とする子孫については、確証がないとすべきである。元禄年間の日付をもつ「古事帳」という古文書もあるが、これは複製(写)であってオリジナルではない。しかも内容は厳密な史料批判に耐えるものではない。伝説が文書に化けたというところであろう。言い伝えは、何ごとであれ、三代四代も経れば、「史実」になってしまうものである。[Q] すると、武蔵の子孫はどこにいるのか。[A] 武蔵は妻帯せず、実子はなかった。ただし、義子(養子)はあった。宮本三木之助(1604~26)の子孫は不明だが、宮本伊織(1612~78)の子孫が九州小倉に存続した。現在、「武蔵子孫」と言えるのは、この系統のみである。作州宮本村で「武蔵子孫」を僭称するようになったのは、武蔵歿後百年以上経った十八世紀後期以降であろう。[Q] 美作説には、武蔵の父は平田武仁あるいは宮本無二とあって、墓もある。この人物はどうなのか。[A] その墓に記された「父」の歿年は天正八年、武蔵の生れた年より四年前だ。だから作州の「父」は、自分が死んで四年もたって武蔵を誕生させたわけだ。それのみならず、「宮本」無二という名前じたいが、伝説の恠しさを証言する証拠である。武蔵の義子(養子)になった宮本伊織が残した棟札(播州加古川・泊神社)の記事では、宮本姓を名のるようになったのは、武蔵の代になってからだ。武蔵の父なる人は新免〔しんめん〕氏を名のっていた。ところが、美作の伝説には、「新免」無二の名はない。しかも「平田武仁」ではぐあいが悪いとみたのか、古事帳文書では「宮本」無二(無仁)だ。そのことからしても、この美作伝説の新しさが知れる。一方、美作説信者の間では、宮本伊織は大嘘つきらしい。[Q] 武蔵の父は、新免無二とあって、この人は美作生れではないか。[A] 新免というのは、美作の氏である。しかし新免無二その人が美作生れという確証はない。「生国播磨」の武蔵が新免を名のっていたように、氏の名だけで美作生れとするわけにはいかないだろう。美作の人々が播磨に流れてきていた例は少なくない。黒田二十四騎の菅六之助の家がその例だ。新免苗裔の末流は今でも播磨にある。[Q] 新免無二は、武蔵の実父ではないというが。[A] その通りである。上記の泊神社棟札によれば、新免無二は後継ぎを残さず、九州秋月で歿した。つまり新免無二の家はいったん絶えた。無嗣で絶えたその家を武蔵が継いだ。そういうことなので、武蔵は無二の実子でないどころか、無二に一度も会ってさえいない可能性がある。だから、武蔵が宮本武仁(無仁)の子だという美作説は、その根本から間違っているし、また武蔵は無二の実子ではないという情報を知らない環境で発生した伝説である。[Q] どうして美作に武蔵産地伝説が生まれたのか。[A] それは、本サイト[資料篇]に吉野郡古事帳と東作誌の詳細な分析があるから、それを見ていただけばよい。作州吉野郡に宮本屋敷という構居遺跡があって、その土地の占有権を正当化する伝説が生じた。それが、我が先祖は宮本武蔵から家を相続したという伝説だった。これが伝説発生の起点だ。宮本屋敷→宮本武蔵という連想が、この伝説を生んだにすぎないのだが、「宮本」武蔵は、死後百年もすると歌舞伎・浄瑠璃にもなった有名人。この武蔵の我田引水で、その後ご当地では伝説成長に拍車がかかったようである。[Q] そもそも、武蔵の当時、美作に「宮本村」という村があったか、疑わしいということだが。[A] 我々の調べでは、武蔵当時、美作国吉野郡に「宮本村」という村があった、という証拠が出てこない。古事帳記事によれば、宮本村は、武蔵死後の明暦年間に、下庄村から分村して生れた新村ということだ。しかも、武蔵が死んで百数十年後の十八世紀後期の美作国絵図でさえ、まだ見当たらない。それが出現するのは、十九世紀の国絵図以後である。
 美作説には迷惑なことだろうが、これはもっと関心をもたれるべき根本的な問題だ。もし武蔵の当時、美作に宮本村なる村がまだなかったとすれば、「宮本武蔵は美作国吉野郡宮本村に生れた」という言説は、そもそも成り立たない。武蔵でなくとも誰であろうと、まだ存在しない「作州宮本村」に生れることはできないからだ。
九州大学蔵
吉田家本五輪書 地之卷冒頭


旧国制 播磨・美作周辺



東作誌


武蔵と父母の墓 明治中期整備
左が武蔵、右が武仁と於政
後は武蔵神社(昭和40年代創建)



武蔵の「生家」?
岡山県美作市宮本








泊神社棟札
兵庫県加古川市木村




宮本武蔵顕彰碑
北九州市小倉北区赤坂
[Q] さて、武蔵は生国播磨。しかしその播磨のどこで生まれたのか。[A] 武蔵の産地を示す一次史料としては、『五輪書』の「生国播磨」という文字しかない。それ以上、具体的にどこかとなると、間接史料に拠る以外にはない。たとえば、地元播磨で、当時どんな伝承があったか、史料を当ってみることだ。地元のことは地元に聞け、というわけだ。[Q] 地元播磨に、なにか武蔵のことを記している史料があったのか。[A] たしかにある。それは『播磨鑑』〔はりまかがみ〕という書物で、平野庸脩という人物が遺した浩瀚な文書だ。この地誌は、武蔵死後七十年ほど後の享保年間から四十年以上にわたって書き続けられた。播磨のほぼ全体を網羅する史書で、当時の文献資料も広範に参照しており、播磨地方史の研究者にとってこれに優る史料はなく、必ず参照すべき基本史料である。[Q] その書物には、武蔵がどこで生まれたか、書いてあるのか。[A] 明確に場所を特定して書いてあった。それは、揖東〔いとう〕郡の「宮本村の産」という記事だ。それによると、現在の兵庫県揖保〔いぼ〕郡太子町宮本という地名になる。太子町というのは姫路城のある姫路市の西隣の町だ。[Q] その『播磨鑑』には、武蔵の産地について、他の場所を示唆する記事はないのか。[A] 武蔵は揖東郡宮本村産だと場所を特定していて、それ以外の土地の候補はない。著者の平野庸脩は、医師であるほか数学や天文学を修めた実証的な学者であったから、確かな異説があればそれを記す。したがって、『播磨鑑』によって知るかぎり、少なくとも十八世紀前半の地元播磨一帯では、武蔵はこの宮本村生れだというのが、だれにも周知の伝承であったようだ。[Q] ところが、近年になって、播磨の他の場所を、武蔵の産地とする説が出てきたが。[A] それは、武蔵の産地は印南〔いなみ〕郡米田村だという説のことだろう。これは、姫路東隣の高砂市の米田のことだ。しかし、この説には根拠はない。そのうえ、『播磨鑑』の記事を故意に無視しないかぎり成立しない謬説である。[Q] 武蔵の養子・宮本伊織による泊神社棟札に、武蔵が米田村に生まれたという記事があるとか。[A] それは、泊神社棟札を見たことがない者たちが、そう言っているにすぎない。この棟札のどこに、武蔵が印南郡米田村出身だと書いてあるか。そんなことは一字も記されていない。およそバカげた伝聞情報である。泊神社棟札については、本サイトに校訂済み原文と詳細な註解が公開されている。それを見れば、正確な知識が得られる。[Q] では、武蔵は印南郡米田村生れだと書いた史料は、どこにあるのか。[A] そんな史料はどこにもない。ただしそれに関連するものはある。それは、九州小倉の宮本伊織子孫による宮本家文書。そこには、武蔵を田原甚右衛門家貞の二男とする記事がある。ところが田原氏というのは、伊織の実家なのだ。どこかで混同混乱が生じたものらしい。これだと、伊織が叔父(父の弟)の養子になったことになる。[Q] それでは何か不都合なことがあるのか。[A] それは、地元播磨側の史料には、それを傍証する記事がないからだ。すなわち、『播磨鑑』は伊織のことを異例に詳しく書いているが、そこには、武蔵が伊織を見込んで養子にしたという記事はあっても、武蔵が田原甚右衛門家貞の息子だとか、伊織の叔父だとかいう記事は、一切ない。[Q] しかし、『播磨鑑』の編著者は、播磨の人であっても、印南郡米田村の田原氏のことはよく知らなかったのではないのか。[A] そこが急所のポイントだ。この平野庸脩は、知らないどころか、逆に、米田村のことも、田原氏のことも、とくによく知っていた人物なのだ。[Q] それは、どういうことなのか。[A] 平野庸脩は、米田村の北隣の平津村の住人である。歩いても十分とかからない、すぐ隣の村である。だから、米田村のことも田原氏のことも、よく知っているし、宮本伊織のことを詳しく書いているのだ。
 庸脩によれば、田原氏は先祖代々米田に居ついていたのではなく、三木落城の後、伊織の父・甚兵衛の代に米田村にやってきたという。おそらくそれが事実だろう。というのも、庸脩の当時、田原氏子孫は現に米田村にいたからだ。庸脩は顔見知りだろうし、他の地域のように調査するまでもなく、子供の頃から隣村・米田村のことはよく知っていたのだ。[Q] そんな肝心なポイントなのに、これまで注目されたことがなかったのではないか。[A] たしかにその通りだ。これまで『播磨鑑』に関して言及した武蔵研究は少なくないが、平野庸脩その人について調べた研究はなく、たとえ庸脩は播州平津村の住人だとは記しても、米田村の隣村住人だというその事実の意義に気づいて、それを強調したものはなかった。これは、本サイトの研究プロジェクトのなかで、はじめて着目され提唱された論点だ。[Q] すると、武蔵が米田村生れで、田原甚右衛門の二男だという説は、地元播磨の史料では否定されるということか。[A] まさにその通り。もし武蔵が米田村生れだったとすれば、地元も地元、隣村の平野庸脩が、そんな「おいしい話」を書かないはずがない。庸脩がそれを書いていない以上、そういう事実はなかったとしなければならない。[Q] なるほど、地元では、武蔵は米田村生れという話はなかったのか。[A] しかも、武蔵は田原甚右衛門家貞の二男だと書いた、九州の宮本伊織子孫の文書でさえ、武蔵が米田村生れだとは書いていない。これも要注意のポイントだ。もしかりに、武蔵が田原甚右衛門の子だとすれば、田原甚右衛門は別所麾下の三木侍だから、武蔵は播州三木の生れとしなければならない。実際、伊織ら兄弟は、播州三木に祖父母や父母の墓を設けている。しかし、三木には武蔵の墓はない。[Q] では、武蔵が田原甚右衛門の二男だという、九州小倉の宮本家文書については、どう考えればよいのか。[A] 残念ながら、これはまったくの誤伝なのだ。伊織が武蔵の養子になったというのは事実だが、「親」の武蔵を逆に伊織実家の田原氏に引っぱり込んでしまったのは、伝説の混乱混同があったと見なければならない。それに、武蔵を田原甚右衛門の二男と書く文書は、弘化年間、つまり十九世紀半ばの幕末に近い頃の新しい作成文書だ。伊織の時代のオリジナル文書は存在しない。それゆえ、この説には信憑すべき根拠史料は存在しない。[Q] 播磨から遠い九州で、後の世に形成された誤伝だというわけか。[A] その通りである。米田隣村に住む学者・平野庸脩の記事と、はるか遠い九州小倉の伊織遠孫の作成した文書、これのどちらが信じうるかとなると、おのずから結論は明らかだろう。
 しかも、この九州の宮本家の伝える系譜には、決定的な難点がある。伊織が兄弟と一緒に建てた祖先の墓が播州三木(箕谷墓地)や京都深草の宝塔寺(京都市伏見区)にあるが、その墓誌によれば、その「武蔵の実父母」ともに、武蔵が生まれる七年以上も前に死去している。死者から子が生れるという、こうした矛盾は一般に事実を無視した後世伝説の証拠である。したがって、結論として言えば、そもそも武蔵が田原甚右衛門の子として印南郡米田村に生まれたという説の根拠はない。[Q] 『播磨鑑』の重要性も含めて、この方向を明確に示した武蔵研究は、これまでに見たことはないが。[A] 要するに、その通りである。現時点(平成十五年初頭)までに発表されたすべての武蔵研究論文を見ればわかることだ。これらは、本サイトの研究プロジェクトのなかではじめて明らかにされた事柄だ。
 これまで出た武蔵出生地説は、すべて否定してよい。美作説はいうまでもないが、播磨説のうち印南郡米田村説も同様だ。揖東郡宮本村説も、従来は『播磨鑑』のことをよく知らずに書いている例しかなかった。我々の研究プロジェクトでは、いったん白紙の状態から、諸説の根拠資料を再検討し、その史料批判の結果を踏まえて、最終的に、播州宮本村を武蔵産地としたわけだ。その詳細に関しては、このサイトに関係論文を公開しているので、それを参照すればよかろう。[Q] 最後になるが、武蔵が生まれたというその播州宮本村には、物証は一切存在しない。その点はどうか。[A] もちろん、現在と同様、十八世紀半ばの『播磨鑑』の時代でも、物証はなかった。それは明らかである。ただし、物証無きことに関しては、美作説も播州米田村説も同列である。武蔵遺跡は――小倉・熊本など九州の関係地を除けば――ほとんどが十九世紀以後の「新造遺跡」である。それに目がくらんではいけない。また、目くらましをするようなことはやってはいけない。
 産地に遺跡等物証が現存しないということでは、たとえば、武蔵と同時代人の黒田二十四騎の人々も同様である。彼等の多くは播磨生れだが、たとえ筑前で知行五千石一万石の大身になったとしても、その産地には物証も痕跡がないのが通例である。そのように産地に物証が残っていないからという理由で、黒田二十四騎の人々を播磨それぞれの場所の生れではないと物申す阿呆は居ない。
 武蔵産地に物証が現存しないと云って、それを否定根拠にするのは、これと同様の愚劣である。この時代の武士たちの播磨の出身地に遺跡があることの方が異例である。それを知らないから頓馬な論立てをする。ようするに、武蔵の出自に関しては、物証は存在せず、文献資料しか存在しない。――これが、武蔵研究における史学上の事実であり、根本条件である。
 武蔵は「生国播磨」という以外に具体的な出自を書き遺してはいない。それは、遠い九州が終焉の地であったから、播州のどこそこと語る理由がなかったからであろうし、また武蔵のような狷介孤高なる人間のことを思えば、出自故郷へのそんな韜晦ぶりも理解できないことはなかろう。それは、武蔵とは何者か、という次なる問題へ展開されるべきことだ。